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2013年11月23日(土) [はじめての『教行信証』(その118)]

 親鸞はすでに行巻末の「正信偈」において「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃をう」と述べていました。これは、『論註』の「浄土に生ずることをうれば」と比べ、さらに大胆な言い方になっています。
 「一念喜愛の心を発すれば」とは、言うまでもなく「金剛の信心をえたその瞬間に」ということですから、まかり間違えば、信心をえた今生において煩悩にまみれたまま涅槃に入ることができると読めてしまいます。現生正定聚ならぬ現生成仏になりかねず、即身成仏と誤解される危険性が出てきます。
 しかしそれは偈(うた)のことばとして約めて言われているのであって、きちっと言えば、「一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃をう」ることが〈約束される〉としなければなりません。
 しかし、親鸞としては「一念喜愛の心を発」したそのときこそが大事であって、その時点を境に世界は変わるのです。文字通りの意味で涅槃を得るのではなく、正定聚になるのだということが理解されてさえいれば、その喜びを「煩悩を断ぜずして涅槃をう」と言ってもいいという気持ちではないでしょうか。
 正定聚になることは涅槃を得ることではありませんが、事実上涅槃を得たにひとしいのですから。仏と同じではないが、仏とひとしいのです。こうして「証」としての正定聚についてはほぼ説きつくされたと言っていいでしょう。

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