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2013年11月25日(月) [はじめての『教行信証』(その120)]

 生死がそのままで涅槃だなどというのは、戦争がそのままで平和だというようなもので、すんなり受け入れられるものではありません。戦争がそのままで平和なら、「戦争反対、いますぐ平和を」と叫ぶのは意味がありません、もうこのままで平和なのですから。
 同様に、生死がそのままで涅槃なら、もう何も悩みはないはずです。ところが現に日々新たな悩みを抱えて右往左往しているのですから、そんなばかなことはないと思います。やはり生死即涅槃なんて矛盾以外のなにものでもないのでしょうか。
 しかし生死即涅槃を矛盾だと感じるのは、生者の視点に囚われているからではないか。そのとき死者のことは全く度外視されているのではないか。
 ぼくはアフリカのサバンナでライオンに追われる鹿のことを思います。鹿は必至に逃げますが、ついに追いつかれ、躍り上がったライオンに咽喉元を鋭い牙で食い破られます。そのときの鹿の澄んだ眼が忘れられません。
 そして思うのです、あの眼は永遠の相を見ているのではないかと。もし鹿にものを思うこころがあるなら、こう思っているのではないか、「ああ、オレのいのちはこれで終わるが、しかしこのいのちはライオンのいのちとして受け継がれていくのだ」と。
 必至に生きんかなとしている鹿、そして同じように何とか食いつなごうとしてライオンのことだけ考えますと、生死は苦悩でしかありません、そこに涅槃寂静の入り込む余地は全くありません。しかし生者としてのライオンと死者としての鹿の双方を見ますと、そこに久遠のいのちが開けてきます。生者は死者に生かされ、かくして久遠のいのちがリレーされていく。ここには静かな涅槃の境地があるのではないでしょうか。

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