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はじめての『教行信証』(その123) ブログトップ

2013年11月28日(木) [はじめての『教行信証』(その123)]

 まず自分が信じ(自信)、しかる後に人を教えて信じさせる(教人信)、こんなふうに離れてしまいますと、どちらも本物ではなくなってしまうような気がします。
 そもそも人を教えて信じさせることなどできるものか、ここからスタートしましょう。生徒に何かを教えて理解させること、これはできます。学校はそれをする場です。しかし人に弥陀の本願を教えてそれを信じさせることはできるのでしょうか。当然だ、それが真宗のお坊さんの仕事だろう、と言われそうです。でも、ほんとうにそうか。もしそうでしたら、真宗のお坊さんは学校の先生と同じで、自分が得た信心を人に伝えるのが仕事だということになります。
 繰り返しになりますが、何かを人に伝えようとしますと、それが自分のものになっていなければなりません。自分のものになりきっていないと、どこかでボロが出ます。さてしかし信心とはかようなものか。「自分のもの」にするものか。そうではないということを親鸞は説き続けたのではないでしょうか。如来廻向の信心、賜りたる信心、これが親鸞の他力思想のエッセンスです。
 だとしますと、この信心を人に伝えることなどできるはずがありません。ただありがたくいただくのみ。では教人信はないのか。自分だけが信心を喜び、他の人はどうでもいいのか。そうではないでしょう。曽我氏はこう言います、「自信のほかに教人信なし、自信おのずから教人信である」と。自ら信じることそのものが教人信になっているということです。自信と教人信とはピッタリひとつになっている。
 自信と教人信とが離れますと、その隙間に「わたし」が入り込んでしまうのです。「わたし」が信じ、「わたし」が人を教えて信じさせることになってしまうのです。

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