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2013年11月29日(金) [はじめての『教行信証』(その124)]

 自信と教人信とが離れますと、その隙間に「わたし」が入り込み、「わたし」が信じ、「わたし」が人信じさせることになってしまうということ。
 『歎異抄』第4章の「念仏まうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらふ」も同じように受け取るべきでしょう。念仏して、しかる後に慈悲のこころを働かせるというように、念仏と慈悲とが切り離されますと、その隙間に「わたし」が入り込み、「わたし」が念仏し、「わたし」が慈悲を働くことになります。
 そうではなく、念仏することがそのまま慈悲の姿であるということ。念仏するとは弥陀の慈悲を受けて喜ぶ姿ですが、それが取りも直さず慈悲を働く姿でもあるということです。
 曽我量深氏はどこかで前姿と後姿という言い方をしていますが、前から見ると念仏しているだけでも、後から見ますと慈悲の姿になっている。本人には後姿は見えません、ただ慈悲を受けて喜んでいるだけですが、それが後から見ているどなたかに慈悲を働く姿になっているということ。
 改めて確認しておきたいのは、利他(他を利する)とは仏に言えるだけで、われらからは他利(他が利する)としか言えないという曇鸞の指摘です。われらから言えば、利他は受動態でしかないということ。われらにとって救いは受動態しかないといっても同じことです。われらは救われるのであって、救うということはありません。
 もしこころのどこかに誰かを救うという意識があるとしますと、そこにはすでに欺瞞が忍び込んでいます。

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