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2013年12月4日(水) [はじめての『教行信証』(その129)]

 迦葉の問いに釈迦はこう答えます、「仏性には過去も現在も未来もない。ところが衆生には過去と現在と未来があり、未来においてはじめて仏性を見ることができる」と。「ふーん」と読み過ごすこともできそうですが、立ち止まって考えてみますと、ますます分からなくなってきます。
 そもそも仏性に過去も現在も未来もないというのはどういうことか。そして未来に仏性を見るというのはこれまたどういうことか。時間軸上のある一点(死の一点)で無常の世界から常住の世界に入るということか。そんなことがどうしてありうるのか等々、頭の中はクエスチョンマークだらけです。
 親鸞はひと言も発しません、ただ『涅槃経』を引くだけ。おのずとぼくら自身でいろいろと思い廻らさなければなりません。それに続くもう一つの問答を見ておきましょう。
 「(世尊は衆生は未来において仏性を見ることができると言われましたが、その一方で)一切の衆生に仏性ありと言われるのはどういうわけでしょう。迦葉よ、衆生の仏性は現在においては見ることができませんが、だからといってないというわけではありません。仏性は虚空のようなもので、その本性は無といわなければなりませんが、現在においてないということはできません。」
 これまた禅問答のようで、その真意を汲み取るのに苦労しますが、先の問答とのつながりで考えてみますと、仏性は常住というものの、われら衆生はそれを未来において見ることができる、とあったのに続いて、ここでは、衆生は仏性を現在において見ることはできないからといって、仏性がないということはないのだ、一切の衆生に現在において仏性はあるのだと述べているようです。
 いま現在まのあたりに見ることはできなくても、未来に見ることができるということは、いま現在においてもあるということだと。

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