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はじめての『教行信証』(その132) ブログトップ

2013年12月7日(土) [はじめての『教行信証』(その132)]

 来るのはいつも「きょう」でしかありません。
 しかし、もう一度言いますが、間違いなく「あした」はあります。としますと、「あした」もまた「きのう」と同じように、「きょう」とは全く別のありようをしているということです。「きのう」は「記憶される(想起される)」というありようでしたが、「あした」は「予期される」というありようです。「あしたはこうしよう」とか「あしたはこうなるだろう」というように。これまた「きょう」のありようとは全く異なりますが、では「きょう」のありようとはどのようなものでしょう。
 それは、どんなことであれ「何かをしている」というありようです。
 仏教では人間の業(すること)を身業、口業、意業に分けます。それぞれ、身体ですること、口で言うこと、こころで思うことですが、そのどれであれ「何かをしている」のが「きょう」のありようです。
 ぼくはいまパソコンの前に座って、窓の外を眺めながら、さまざまに思いを廻らしています。これが「きょう」のありようですが、しかしあと何時間かしますと、別のことをしているでしょうから、「きょう」とはいうものの、いま「何かをしている」ことは次々と「何かをしていた」ことになっていき、「きょう」のありようは「きのう」のありようへと飲み込まれていきます。
 さて、「記憶される(想起される)」、「何かをしている」、そして「予期される」という過去・現在・未来の三つの時間はどのような関係になっているのでしょう。

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