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2013年12月9日(月) [はじめての『教行信証』(その134)]

 「きょう」眠りについて「あした」目覚めるのではなく、目覚めたときはまた「きょう」であるように、今生で眠りについて来生に目覚めるのではなく、(目覚めるのかどうかも分かりませんが)目覚めたとしたらそれはまた次の今生でしょう。来生は今生において予期されるしかないのです。
 このように、来生は今生の中にしかないとしますと、「仏となる」のもまた今生においてでしかありません。それはもちろん、来生に「仏となるであろう」と予期するのが今生においてであるという意味です。「あしたはいいことがあるだろう」と「きょう」予期するように、来生は「仏となるだろう」と今生において予期するのです。
 ほんとうに「あしたいいことがある」かどうかは分からないように、ほんとうに来生に「仏となる」かどうかも分かりません。ぼくらにできるのは来性に「仏になる」と今生において信じることだけで、ほんとうに来生に「仏になる」と言ってしまいますと、それは来生を今生の外に実体化しています(「きょう」の外に「あした」という日を実体化するのと同じように)。
 さて、『涅槃経』に「衆生未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性をみることをえん。このゆへにわれ仏性未来といへり」とありました。ぼくらにとって「仏性をみる」ことができるのは、あくまでも未来つまり来生においてであるということです。今生では「仏性をみる」ことはできない。一切の衆生に仏性があるとはいっても、それを目の当たりに見ることができるのは今生ではなく来生であるということです。

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