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2013年12月10日(火) [はじめての『教行信証』(その135)]

(3)見ると聞く
 どうしてぼくらは今生において仏性を見ることができないかと言いますと、『涅槃経』の少し先にありますように、「一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩おほへるがゆへにみることをうることあたはず」であるからです。「煩悩まなこをさへてみたてまつらず」(源信『往生要集』)です。
 このように仏性を「見る」ことができないという言い方がよく出てきますが、ここで「見る」と「聞く」を対比してみましょう。と言いますのは、これまた『涅槃経』にこんなことばが出てくるのです。
 「迦葉よ、見るということに二種類あります。ひとつは眼で見ること(眼見)、もうひとつは聞いて見ること(聞見)です。仏たちが仏性を見るのは、手のひらにおいたマンゴーを目の当たりに見るようなものです。しかし十住の菩薩(仏になる一歩手前の菩薩)といえども、仏性は聞いて見るだけで、明瞭に見るわけではありません。」
 ここに聞見というおもしろいことばが出てきます。耳で聞いてこころの眼で見るということでしょう。ぼくらは、目の見えない人と同じように、仏性を眼見することはできないが、聞見することができるというのです。なぜかと言えば、眼見することができるのは現在のことだけで、未来のことは聞見するしかないからです。ぼくらにとって仏性は未来ですから、それを眼見することはできず、聞見することができるだけ。

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