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2013年12月13日(金) [はじめての『教行信証』(その138)]

 未来を信じるという場合、二つの信があります。こちらから「与える信」と、向こうから「与えられる信」です。
 例えば、アウシュヴィッツの囚人たちが「いつの日か必ず家に帰れる」と信じるとき、みずから信を与える場合と、どこかから信が与えられる場合があります。「いつかきっと帰るぞ」とこころに堅く決意する場合と、「帰っておいで」という声がどこかから聞こえる場合と。
 前者の場合、たとえ帰れなくてもかまわないとは決して思わないでしょう。そう思うということはそれだけ決意が弱まっていると言わざるをえません。しかし後者の場合は、たとえ帰れなくても一向にかまわないでしょう。なぜなら「帰っておいで」という声がもうすでに聞こえているのですから。それはもうすでに帰っているのにひとしい。
 「いつの日か必ず浄土へ往ける」に戻りますと、そのように信じるのが「与える信」でしたら、たとえ往くことができなくてもかまわないと思うことはありません。それはもう信が萎えてきている証拠です。
 でも、それが「与えられた信」でしたら、たとえ浄土へ往くことができず地獄に落ちたとしても一向に後悔しません。なぜならもうすでに「帰っておいで」という声が聞こえているのですから。身は穢土にあっても、心はすでに浄土に遊んでいるのです。  
 かくして「必ず浄土へ往くことができる」と「たとえ往けなくてもかまわない」とは矛盾しないことが分かります。むしろ「必ず往ける」と信じるから「往けなくてもかまわない」のであり、「往けなくてもかまわない」と思うほどに「必ず往ける」と堅く信じているのです。

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