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はじめての『教行信証』(その141) ブログトップ

2013年12月16日(月) [はじめての『教行信証』(その141)]

 さてぼくはと言いますと、そのいずれでもありません。家が真宗だからでもなく、知人から勧められてでもなく、高校生のとき『歎異抄』の親鸞に出会ったことが機縁となったのです。その意味で、ぼくは親鸞という「人に就いて信を立」てたということになります。
 親鸞は法然という生身の「人に就いて信を立」てましたが、法然は『観経疏』の善導に出会って信を立てたのですから、ぼくの場合と似ています。法然は叡山の経堂で『観経疏』の一節、「一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるがゆえなり」に出会ったのです。
 ぼくは『倫理・社会』の課題図書の一冊であった『歎異抄』を読み、その中の親鸞のことばに出会って「これはほんものだ」と思ったのです。高校生のことですから、その深い意味が分かったとはとても言えませんが、でもとにかく「ここにはほんものがある」という確かな手ごたえがありました。
 親鸞はその中で「たとひ法然聖人にすかされまひらせて」と言いましたが、ぼくも「たとえ親鸞にだまされたとしても」と思ったのです。この「たとえだまされてもかまわない」という言い回しには何か深く考えさせるものがあります。一方では「ほんものだ」と思い、他方で「たとえうそでもいい」と思う、ここにはどんなからくりがあるのでしょう。
 どんなときに「だまされたとしてもかまわない」と思うかを考えてみましょう。例えば、親友が深刻な顔つきで「100万ばかり用立ててもらえないだろうか。必ず返すから」と頼んできたようなとき。

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