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はじめての『教行信証』(その142) ブログトップ

2013年12月17日(火) [はじめての『教行信証』(その142)]

 この頃は「オレオレ詐欺」などという物騒なことがありますから、頼んでいるのが本人かどうかはもちろん確認しなければなりませんが、紛れもなく本人が「恩に着る、貸してほしい」と言うのなら、「だまされてもいいか」と思って貸してあげないでしょうか。
 それは、「必ず返す」と彼が言うのはうそになるかもしれないと思いながら、でも「必ず返す」ということばに真実を感じたのではないでしょうか。「必ず返す」ことにはならないかもしれないと思いながら、それでも「必ず返す」ということばを信じる。これ以上の信はあるでしょうか。
 さて、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」ということばは親鸞の口から出ました。そしてそのことばを「これはほんものだ」と感じた。
 それはぼくが親鸞という人を信じるから、彼の言うことを信じるということではありません。そもそもぼくは親鸞という人をじかには知りません。ぼくにとって親鸞とは彼が残したことばでしかないのです。しかしそのことばに確かな真実を感じた。「たとえだまされてもいい」と思うほど真実を感じたのです。
 こう言えばいいでしょうか、親友はぼくをだますかもしれない、親鸞はぼくをだますかもしれない、でも、親友のことば、親鸞のことばには「たとえだまされてもいい」と思える真実があると。「人に就いて信を立つ」とはそういうことではないでしょうか。

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