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はじめての『教行信証』(その143) ブログトップ

2013年12月18日(水) [はじめての『教行信証』(その143)]

 ことばは親友の口から、親鸞の口から出ます。ですから、ぼくは親友のことば、親鸞のことばを信じるのですが、でも「たとえだまされてもいい」と思わせるのは、そのことばが親友や親鸞を通り越してはるか遠くから来ているように感じられるからではないでしょうか。
 ことばがどこか遠くからやってきて、親友や親鸞の口を通して語られているように感じられるのです。しかし、ことばが、ある人の口から出ているには違いないが、その人が発信源というよりも、はるかな彼方からやって来るとはどういうことでしょう。
 ぼくの想像は「いのち」へと一挙に飛躍します。
 ぼくの「いのち」は父と母から来たのは間違いありませんが、でも父母がぼくの「いのち」の発信源ではなく、はるか彼方から来ています。それを遡れば38億年前の「いのち」誕生の瞬間までたどることができます。いや、それにはさらに前史があって、もう悠久の時間の中に溶け込んでしまうかもしれません。
 同じように、「たとえだまされてもいい」と思えることばも、悠久の過去に遡ることができるのではないでしょうか。
 それを親鸞は『歎異抄』第2章でこんなふうに言っています。「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふか」と。
 「いのち」がはるかなリレーでぼくまで届けられたように、「一念もうたがひあるべから」ざることばも悠久のリレーを経てぼくに届いたと言えるのではないでしょうか。

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