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2013年12月23日(月) [はじめての『教行信証』(その148)]

 「これから」の不安に対して「これから」の「あんしん」があるように、「もうすでに」の不安に対して「もうすでに」の『あんじん』があります。そして「あんしん」はあっても『あんじん』がない場合があるのです。
 「これから生きていけるだろうか」という不安はなくても、「このまま生きていていいのだろうか」という不安を抱えている場合がある。そんなとき「いま」の幸せも「これから」の幸せも色あせてしまいます。「生きている理由はあるのか」という不安でこころは鬱々として楽しめない。
 かくして「あんしん」への願いとは別に『あんじん』への願いがあると言えます。
 さて問題はこうでした。往生(『あんじん』)を願って念仏している人に、誰かが「罪深いものが発願し念仏したとしても、それで浄土へ往ける保証がどこにあるのか」と難癖をつけてきたとき、それにどう答えられるかということです。
 「たとえかなわなくてもいい」と答えられるかどうか。
 もしこれが「あんしん」への願いでしたら、この難癖に抗すべくもありません。「あんしん」への願いを発して疑いのないこころで念仏すれば、その願いは必ずかなえられるなどと言うことはできません。そもそもそこに疑いがないなどということはありません、「あんしん」は「これから」のことですから。
 しかし『あんじん』への願いはどうでしょう。
 「このまま生きていていいのか」という不安に駆られて『あんじん』を願うとき、ある不思議な気づきがあります。願っているのは紛れもなく自分ですが、それに先立って誰かに願われていると感じるのです。自分が願うのは、実は願われているからという気づき。

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