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はじめての『教行信証』(その158) ブログトップ

2014年1月2日(木) [はじめての『教行信証』(その158)]

 この問題を扱っているのが『歎異抄』第17章です。
 唯円は「方便の教えで辺地に往生した人は、結局は地獄におちる」という異義(誤った考えということで、『歎異抄』というタイトルは、こうした異義を歎いて書いたという趣旨でつけられました)を「いづれの証文にみえさふらふぞや」と手厳しく批判しています。この異義は、真実の教えと異なるものは、たとえそれが方便であったとしても、何の値打ちもないという考えです。どんなに難しいとしても、まがいものではなくほんものの信心をもたなければ浄土へは往けませんよと言うのです。
 唯円はそれに対してこう答えます、「信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて、辺地に生じて、うたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそうけたまはりてさふらへ」と。こういうことでしょう、真実の信心をもつことが尊いことは言うまでもないが、だからといって、真実の信心をもたなければ救われないということではなく、一旦は浄土のほとりで疑いの氷が溶けるのを待って、しかる後に浄土に迎え入れてもらえるのだと。
 唯円は続けてこう言います、「信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられさふらふ」。真実の信心をもつ人は少なく、多くは心のどこかに疑いをもっているから、そういう人のために化土が用意されているのだということです。ぼくらはさまざまな基準を設けて人やものに序列をつけています。自力の世界にはもちろん優劣の序列がありますが、それを否定する他力にも序列があるかのように思ってしまうこと、ここにはよくよく考えなければならない問題が潜んでいます。他力の序列といいますのは、他力の純粋さで優劣を競うということです。

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