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はじめての『教行信証』(その166) ブログトップ

2014年1月10日(金) [はじめての『教行信証』(その166)]

 この気づきがあるかないかは、一見そんなに大きな違いに思えないかもしれません。己の内なる煩悩に気づいたからといって、その煩悩から抜け出すことができるわけではありません。ただ煩悩があることに気づいただけのことです。
 しかし、煩悩はそれに気づくことで、そこから脱出できないにしても、それに囚われなくなるのです。
 で、割り込みに対して怒りが収まらない人を見て、ああ、この人は以前の自分と同じように怒りに囚われていると思う。しかし、その人に「あなたは怒りに囚われています」などと言うわけにはいきません。そんなことを言うのは火に油を注ぐようなものです。
 では何ができるか。何もできそうにありませんが、もし怒りのあまり殴りかかりそうな気配がありましたら、その間に割って入り、まずは割り込みをする人に対してそれをやめるように説得しながら、怒りの人には怒りを収めるよう宥めるしかありません。
 すっきりしないと言えばその通りですが、実際に生きるというのはこういうものではないでしょうか。
 何しろ、ぼくらは自力の世界(煩悩の世界)を生きるしかないのです。いくら他力が真実だといっても、さようですか、では自力を捨てましょうというわけにはいきません。死ぬまで自力と付き合っていくしかありません。ただそのことに気づき、それを自覚して生きることができるだけです。
 他力とはそういうことでしかありません。自力に気づきながら方便として自力を生きるということです。

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