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はじめての『教行信証』(その172) ブログトップ

2014年1月16日(木) [はじめての『教行信証』(その172)]

 自力では、「これから」悟りを目指して一歩一歩階段を登らなくてはなりません。でも他力では、気がついたときには「もうすでに」本願海にいたのです。そこからこれまでを振り返れば、本願海にいることに気づかず、自力の世界をもがいていたことが手に取るように分かるのです。ああ、あのとき十九願の要門をくぐり、そしてあのとき二十願の真門に入ったと。
 そして本願海に気づいたところから振り返れば、これまでの道のりはそれぞれに「まことにゆへあるかな」と思えてくるのです。十九願の要門も二十願の真門もそれぞれに方便として用意されていたのだと。
 自力の菩薩道では、これまでたどってきた位階はそれ自体としてはもう何の意味もありません。それはすでに乗り越えられたのであり、目指すべきはさらに上の位階です。しかし他力の気づきでは、すでに本願海にいたことに気づいていなかっただけですから、これまでのプロセスが否定されるわけではありません。
 それは気づきに至るかけがえのない道程として捉えられることになります。もちろんそのときはそんなふうに思っていたわけではありませんが、気づきに至ったところから振り返ってみると、ああ、あのときは十九願のところに、あのときは二十願のところにいたのだなあというように思えるのです。
 以上から、三願転入をあたかも信心の三段階のように捉えて、ホップ、ステップ、ジャンプと一段ずつ上がっていかなければならないかのように考えるのは誤解であると言わなければなりません。三願転入とは本願海帰入を喜ぶ述懐なのです。

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