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はじめての『教行信証』(その174) ブログトップ

2014年1月18日(土) [はじめての『教行信証』(その174)]

 では、今はどの時代に当たるのか。親鸞はこう言います。
 「正法、像法、末法の三つの時代についての教えを考えてみますと、釈迦が入滅された時期は、周の第五代穆王の五十一年にあたりますから、その年からわが国の元仁元年までに二千百八十三年経過しています。ですから、『賢劫経』や『仁王経』、『涅槃経』などの説によりますと、末法に入ってすでに六百八十三年となります。」
 親鸞の計算によれば、現在(元仁元年、西暦1224年、親鸞52歳)は仏滅から2183年に当たるから、正法・像法合わせて1500年を引くと、末法に入って683年経過しているということになります。今はもう紛れもなく末法の世だというわけです。親鸞はこう述べたあと、最澄の『末法燈明記』から末法の世の僧尼のありさまについて引いています。
 その中には「出家した比丘や比丘尼が、子どもの手を引いて、一緒に酒場から酒場へと渡り歩くであろう」などとありますが、このような記述を引くとき、親鸞はおのが身に引きあてていたに違いありません。酒場から酒場を渡り歩くことはなくても、妻をもうけ、子をもうけて無戒の生活をしている自分こそ、今が末法の世であることの何よりの証しだと感じていたと思うのです。
 前に信巻で『涅槃経』から阿闍世王の物語が長々と引用されているのはどうしてだろうと考えたことがあります。ぼくには親鸞が阿闍世王に自分を重ねているように思えるのです。阿闍世は父殺しという五逆罪を犯したのですが、五逆罪を犯していない自分と犯した阿闍世との隔たりは如何ほどかと思っていたのではないか。同じ宿業の中にいるという感覚です。ここ化身土巻でも親鸞は『末法燈明記』に出てくる末法の世の僧尼の姿に自分を重ねているように感じます。

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