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はじめての『教行信証』(その175) ブログトップ

2014年1月19日(日) [はじめての『教行信証』(その175)]

 親鸞は、おのれに阿闍世を感じるように、おのれに末法を感じていると思うのです。末法は自分の外にあるのではなく、自分の中にある、いや、自分こそが末法であるという感覚です。
 「何とひどい世の中になったものだ」という嘆きはその辺りにいくらでも転がっていますが、親鸞の嘆きはそのようなものではありません。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」という嘆きなのです。
 ちょっと横道にそれることを許していただきたいのですが、ぼくは石原慎太郎という人がどうにも好きになれません。とりわけ彼の正体がはっきり見えたと思ったのは、東日本大震災のときの「天罰発言」でした。
 彼は「あれは日本人の我欲に対する天罰だと思う」と言いました。すぐ撤回したようですが、それが本心だからこそでしょう。彼は常々、日本人は我欲の塊りになってしまって、世も末だと言っているのですから。
 こんなふうに「世も末だ」と嘆く人はどこに立っているのでしょう。その世の内部にはいないはずです。どこか別の場所から世の中を見ている。だからこそ天罰が下ったなどと言えるのです。
 親鸞の末法思想はそのような嘆きとは縁もゆかりもないと言わなければなりません。親鸞の末法思想は「機の深信」に他なりません。機の深信が時間の深みを持ったとき宿業の自覚となり、それがさらに時代の意識にまで拡がったとき末法思想という形をとるのです。

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