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「コギト エルゴ スム」を絵にすると [生きる意味(その14)]

(11)「コギト エルゴ スム」を絵にすると
 本当にややこしくて申し訳ありません。こんな言い方はどうでしょう。ぼくらは自分の眼を直接見ることはできませんね。もちろん鏡に映したり、写真に取ったりして見ることはできます。でも、それは眼を直接見ているのではなく、どこかに映し出されたものを間接的に見ているだけです。
 同じように、「いる」ことを直に意識することはできないのです。
 もう少しややこしい話にお付き合い下さい。突拍子もないことをと思われるかもしれませんが、少し前に上げたデカルトの「われ思う、故にわれあり」を絵に描いてみようと思います。どうでしょう、ロダンの「考える人」のように、誰かが何かをじっと考え込んでいるという絵柄が浮かんできませんか。
 この絵には、何かをじっと考え込んでいる「われ」が描きこまれていますが、この「われ」は考えている自分、つまり「する」自分です。何かを考えていること、そして考えている自分がいること、これはデカルトの言うように疑いようもなく確かです。それを疑っても、その瞬間に、疑っている自分がまた絵の中に現れますから。
 さて、この絵はカンバスに描かれていて、このカンバスがなければ、絵そのものが存在できません。何かを考えていること、何かを考えている自分がいること、それらすべてがこのカンバスに支えられています。このカンバスが実は「いる」自分です。絵の中の「われ」は、カンバスとしての「われ」に支えられているのです。

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