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「問いには前もって答えがある」という信仰 [生きる意味(その34)]

(5)「問いには前もって答えがある」という信仰
 机は自分の「生きる目的」を人間に聞けばいいように、神さまがわれわれ人間を造った目的を知りたいのなら、神さまに聞けばいいのです、「あの、神さま、われわれは何のために生きているのでしょうか」と。神さまはきっと親切に教えてくれることでしょう。でも、そんな神さまがいないわれわれとしたら、答えはどこにもありません、誰にも聞けません。ではどうすればいいか。自分で答えを作るしかありません。
 ぼくらは問いには前もって答えが用意されていると思っている節があります。問いがあるなら、解答はどこかにすでにあると。でも、それが大きな勘違いだとしたらどうでしょう。学校教育がそういう思い込みを作り出しているのではないでしょうか。
 学校では、先生がすでに答えを持っていて、その上で生徒に問いを出します。あるいは生徒が使う問題集には巻末に解答がついています。ですから、生徒は問いには必ず答えが前もって用意されていると思い込んでいます。でも考えてみると、これはほんとうの問いではないですね。先生が答えを持っているのですから、これは問うというより、生徒が分かっているかどうかを試しているに過ぎません。
 本来、問うというのは、自分が分からないからこそ誰かに問う訳で、その時相手も分かっているかどうかは定かではありません。自分が疑問に感じ、それを誰かに聞いてみる。すると相手も「そうだね。どうだろうね」と一緒に考える。二人でいろいろ考えても埒が明かないようだと、もっと別の、そのことに詳しいと思われる人に聞いてみる。こういった筋道をたどるのが普通です。

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