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「悲しみ」は誰かのものか? [生きる意味(その49)]

(20)「悲しみ」は誰かのものか?
 「意識は誰かの所有物である」ということが、キャッチコピーのようにもう牢固として抜きがたくぼくらに刺さっています。痛みやそよぐ木など何かが意識されていれば、その意識は誰かの心の中にある。当たり前じゃないか。当たり前すぎてあほらしい。
 でも本当にそうでしょうか。
 「悲しみ」を考えてみましょう。悲しみも誰かの悲しみでしょうか。またもやあほらしいほど当たり前。ぼくの悲しみ、きみの悲しみはあっても、誰のものでもない悲しみなんて考えられません。でも本当にそうか。
 映画で悲しい場面が出てくるとみんな涙を流します。その時悲しみはどこにあるのでしょう。誰の悲しみでしょう。
 「そりゃあ、登場人物の悲しみが観客に乗り移って、みんなウルウルするって訳だ。」
 「何で悲しみが乗り移るのさ。悲しみは誰かのものだとすれば、誰かのものがいつの間に他の人のものになるんだい?」
 「うーん。じゃあきみは気持ちが通じるってことをどう考える?目配せひとつで気持ちが通じるのはごく当たり前の経験だと思うけど。」
 「いや、だからその気持ちはもう誰かのものとは言えないんだよ。それが誰かのものだったら、どうして他の人のものになるのか理解できないと言ってるのさ。」
 「誰かのものが他の人のものになるのが何で理解できないの?ぼくらは毎日お互いにものをやり取りして生活しているじゃないか。」
 「ふむ。ぼくのものをきみに上げるとするよ。するとそれはもうぼくのものではなくなるね。ぼくの悲しみをきみに上げると、それはきみの悲しみになって、もうぼくの悲しみではなくなるけど…。」
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