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「いる」ことに関わる真理を「手に入れる」ことができるか? [生きる意味(その105)]

(9)「いる」ことに関わる真理を「手に入れる」ことができるか?
 釈迦はこの世にいること自体に「居心地の悪さ」を感じていたのではないでしょうか。この世のどこにも「居場所がない」と感じていたのではないか。それを示す話が有名な「四門出遊」です。
 彼はカピラ城の中で人の羨むような生活をしていても心が晴れません。城の外に出れば気分が変わるかもしれないと、ある日城の東門から出ようとしたところ、無惨な姿の老人に出会います。またある日南門から出ようとして今度は哀れな姿の病人に出会い、そして西門では朽ちつつある死人に出会うのです。どこへ行っても「居心地の悪さ」を感じてしまう。しかし、ある日北門から出た折に一人の沙門に出会い、その清々しい姿に感じ入って自らも出家を決意したのでした。
 釈迦やぼくが求めた真理と自然科学の真理とはどう違うかを考えてきました。で、前者は「いる」ことに関わる真理で、後者は「する」ことに関わる真理だと述べました。前者は、この世に「いる」ことに付き纏う「居心地の悪さ」を解決してくれるもので、後者は、さまざまなことを「する」上で問題解決に役立ってくれるものです。
 さて、「する」ことに関わる真理の場合、誰かがその真理を「手に入れて」、「所有する」というあり方で何の問題もないと思いますが、「いる」ことに関わる真理の場合もそのようなありようをしているのでしょうか。もしそうだとすれば、どうにもならない矛盾に突き当たるような気がするのです。

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