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何かを所有するということは [生きる意味(その109)]

(13)何かを所有するということは
 お釈迦さまは地獄のカンダタを救おうと蜘蛛の糸を垂らすのですが、この慈悲に満ちた行為に偽善のにおいがしないでしょうか。その慈悲が本物ならば、自分は極楽にいて、いわば安全地帯から救いの手を差し伸べるのではなく、自ら地獄に赴いて救おうとするのではないか。
 一方に地獄の苦しみがあり、他方に極楽の楽しみがあるということ自体、「わたしだけの救いはない」とする大乗の教えに反すると思うのです。
 戻りましょう。「いる」ことに関わる真理を誰かが所有し誰かは所有しないというのは根本的に矛盾しているという話です。とするならば、その真理はどのようなあり方をしていなければならないのでしょう。
 「所有する」ということは、まずもって「ぼく」がいなければなりません。まずぼくがいて、しかる後に何かを所有するのです。で、ぼくが何かを所有しますと、他の誰かはそれからこぼれ落ちてしまうということを述べてきたのですが、しかし、それよりも何よりも、ぼくが何かを所有しますと、ぼく自身がそれからこぼれ落ちます。
 こういうことです。キリスト教は神がこの世界を「無から創造」したと教えますね。神はこの世界を創り出したのですから、当然この世界の所有者でしょう。ですが、創造主であり所有者である神はこの世界の中にいることはできません。神はどこにいるのか分かりませんが、とにかく自分の造ったこの世界からはこぼれ落ちています。

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