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もし釈迦が語らなかったら [生きる意味(その119)]

(23)もし釈迦が語らなかったら
 というわけで、どこかに「法がある」のではなく、すべてが「法である」としますと、一体仏とは何だろうという問題です。
 それを考える上で面白い逸話があります。釈迦が菩提樹の下に座って瞑想にふけっていた時、突然ある気づきがやってきたということはすでにお話しました。その時のことなんですが、釈迦はその気づきを人に伝えるのを躊躇したそうです。
 それがあまりに微妙で到底理解してもらえないと思ったと言います。しかし梵天(ブラフマン、仏教に取り入れられた守護神のひとり)から強く勧められ、元の修行仲間たちに語り始めた。いわゆる「初転法輪」です。この時こそ本当の意味で仏教が生まれた瞬間でしょう。
 このエピソードは、釈迦にある気づきがやってきてから、それをことばにするまでに一定の時間が必要であったということを意味しています。もしも釈迦がその気づきをことばにしなかったら、それは釈迦の胸のうちに秘められたまま、そのうち消えていったことでしょう。仏教は存在しなかった。
 しかしだからと言って気づきがなかった訳ではありませんし、気づきの内容そのものが存在しない訳でもありません。「すべてひとつにつながりあっており、それ自体としてあるものはない」という「ことば」は存在しなかったかもしれませんが、そのことばが表す内容そのものは、それが誰かに気づかれようが気づかれまいが、そしてその気づきがことばで表されようが表されまいが、そんなことには無頓着にそこにあるはずです。

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