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縁起をことばにしてしまうと [生きる意味(その124)]

(28)縁起をことばにしてしまうと
 釈迦が、世界そのものの実相を、「すべてのものはひとつにつながりあっていて、それだけとしてあるものはない」とことばに表した時、それは「道具として利用される真理」と見分けがつきません。そして実際そのようなものとして受け取られる危険性が生じたのです。そこに虚偽の可能性が潜んでいます。
 こういうことです。「すべてのものはひとつにつながりあっていて、それだけとしてあるものはない」という「ことば」が、「道具として利用される真理」と見なされますと、「それを生きる真理」ではなく、「それだけとしてあるもの」になってしまうのです。つまり縁起の法自体が縁起の法からこぼれ落ちてしまう。
 これまでの長い道のりを整理しておきましょう。一体真理って何か、という問題でした。どうやら真理には二種類あって、「する」ことにおいて役に立つ真理と、「いる」ことの不安を取り除いてくれる真理とに区別できるようです。そして、前者は「ことば」で、ぼくらはそれを「手に入れる」ことができますが、後者は「世界の実相」で、ぼくらはそれを日々「生きている」のです。
 両者を混同して、世界の実相を「手に入れよう」としますと、ぼくら自身が手に入れたはずの真理からこぼれ落ちてしまい、いわば世界の半分しか手に入らない結果となります。ぼくらは世界の真理を「知る」ことはできるかもしれないが、それを「生きる」ことはできないということです。

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