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「生きる意味」もまた [生きる意味(その126)]

(30)「生きる意味」もまた
 この辺りで、縁起の法を「生きる意味」に戻してもいいでしょうか。これまで長々と縁起の法を取り上げてきましたが、それは縁起の法が「生きる意味」と切り離しがたく結びついているからです。「みんなひとつにつながっている」と感じるからこそ、「あゝ、生きていてよかった」という喜びがこみ上げてくるのですから。
 いや、「みんなひとつにつながっている」という実感は、そのまま「生きているって素晴らしい」という喜びそのものと言うべきです。
 としますと、すぐ前で「ぼくが縁起の法を知るのではなく、世界がぼくにおいて縁起の法を自覚するのです」と言ったことは、そっくりそのまま、「ぼくが“生きる意味”を手に入れるのではなく、世界がぼくにおいて“生きる意味”を感じているということです」と置き換えることができます。
 どこかにあるものを「わがもの」にしようとしますと、それに先立って「われ」がいなければなりません。そのとき「われ」と「わがもの」とは、どれほど接近しても一体ではありません、その間に隙間があります。「生きる意味」を「わがもの」にすることができたとしましても、「われ」と「生きる意味」との間に隙間があります。これでは「生きる意味」に包まれていることにはならなりません。
 「生きる意味」はどこかに「ある」のではなく、ぼくやきみに「届く」ものだと言うのは、そういうことです。(第4章 完)


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