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機が熟する [生きる意味(その134)]

(8)機が熟する

 としますと、このひと言「先生ごめん、あれはぼくがやった」には一体どんな意味があるのでしょう。別にこのひと言でなくても、何か他のことがきっかけとなって同じ気づきが起こるかもしれません。ということは偶然ということです。たまたまこのひと言があって、その時気づきが起こっただけ。
 禅の世界では、こういった話がいっぱいあります。ある禅僧が箒で庭を掃いていたところ、弾みで小石が竹に当たって「カーン」と澄んだ音を立て、その瞬間に悟りが開けた。この場合もこの音と悟りの間に必然的な関係はないでしょう。たまたま「カーン」と澄んだ音がして、ハッとあることに気づいた、ただそれだけ。
 ある禅僧にそういうことが起こったからといって、他の人にも同じことが起こる訳ではありません。それは一回限りの出来事です。しかしその経験をした禅僧にとっては運命的な出来事で、それがなければ悟りはなかったと感じられるに違いありません。偶然の出来事だが、しかし必然的なつながりを感じる。
 仏教には「機」ということばもあります。法(真理です)があっても、法に気づく主体的条件が整わないと決して気づきは起こりません。この主体的条件のことを機というのです。機が熟さなければ気づきは起こりません。ちょうど柿の実が熟してぽとりと落ちるように、機が熟してぽとりと気づきが起こる。気づきには法と機がそろわなければなりません。


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