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「いのち」の私物化 [生きる意味(その143)]

(17)「いのち」の私物化

 「はじめに」で、いじめによる自殺を取り上げました。「こんなに辛い思いをするなら、もう生きていたってしょうがない」と、生きることに見切りをつける若者たち。若者たちをそんな思いにさせてしまっているこの社会のあり方を考えなくてはなりません。それが第一です。その前提に立った上で言います。
 きみは「いのち」を私物化しているのではないだろうか、と。
 「いのち」の私物化とは、よく宗教家が口にすることばです。「いのち」は神仏から賜ったものだから、勝手に扱ってはならない、と。それはそれで意味のあることだと思いますが、ぼくはちょっと違う視角からこのことばを考えてみたい。そもそも「いのち」は誰のものでもないということです。前に「心」は誰のものでもないと言いました。「心」にぼくもきみもないと。同じように「いのち」にぼくもきみもありません。

 「えー、“いのち”はかけがいがないと言うじゃない。“いのち”はただひとつで、誰とも取り替えることはできないと。“ぼくのいのち”、“きみのいのち”が、それぞれかけがえのないものとしてあるということだよ。」

 一見もっともだと思えます。大体、人にはそれぞれ寿命というものがあります。ということは、「いのち」はそれぞれの人のものだということのようです。でも、もしぼくが「いのち」を所有していることになりますと、ぼくと「いのち」は別ものです。「これはぼくの“いのち”だ」という文に意味があるとしたら、ぼくと「いのち」は別ものでしょう。「これはぼくのお金だ」という場合、ぼくとこのお金は別だということです。


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