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「いのち」の大海 [生きる意味(その145)]

(19)「いのち」の大海

 「いのち」は水と親縁関係がありますが(哲学の祖とされるタレスは「万物の根源は水である」と言ったことで有名です。その時タレスは「いのち」のことを考えていたと言われます)、「いのち」を大海の水になぞらえてみると分かりやすくなります。それぞれのしずくは別々ですが、しかし同じ海水です。
 このイメージで言いますと、まず大海があり、しかる後に滴り落ちる別々のしずくがあるのであって、その逆ではありません。同様に、まず「いのち」があり、しかる後に「ぼく」や「きみ」がいるのです。逆ではありません。まず「いのち」の大海があって、しかる後に「ぼく」というしずく、「きみ」というしずくが滴り落ちるのです。
 何かを「する」ことはその反対で、まず「ぼく」や「きみ」がいて、しかる後に誰かが何かを「する」のです。尾篭な話で恐縮ですが、まず誰かがいて、しかる後にその人が密かに「屁をひる」のです。ですから「誰だ、屁をひったのは?」となります。しかし、まず「いのち」があり、しかる後に「ぼく」や「きみ」がいるのですから、「いのち」の大海そのものにはぼくもきみもありません。

 「うーん、ちょっと待ってよ。誰かが密かに屁をひって、“誰だ、屁をひったのは?”となるのと同じように、誰かが密かにいて、“誰だ、いるのは?”となることはないの?“する”ことがある以上、まず“ぼく”や“きみ”がいるように、“いる”ことだって、まず誰かがいるんじゃ…、あれ?」
 「ふふふ、変だろ。まず“いる”のさ。しかる後に“ぼく”や“きみ”が登場してくる。誰かが密かにいて、“誰だ?”という時の“誰だ?”は、“誰だ、〈そこに〉いるのは?”という意味で、“そこにいる”、例えば“部屋にいる”のは、ほんとうは“いる”ことじゃなくて、“する”ことなんだよ。」

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