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ぼくという〈場〉で「いのち」がひかる [生きる意味(その146)]

(20)ぼくという〈場〉で「いのち」がひかる

 「ぼくはいのちで、きみもいのち」の意味が大分はっきりしたと思います。「ぼく」は、一方では「ぼくというしずく」であると同時に、他方では「いのちという大海」です。ぼくは一滴の「しずく」として、何かを「する」と同時に、「いのちという大海」として、この世に「いる」のです。
 きみも別の「しずく」として、何かを「する」とともに、「いのちの大海」として、この世に生きて「いる」。それぞれの「しずく」としては、ぼくときみは別々ですが、「いのちの大海」では、ぼくもきみもありません。
 こうも考えることができます。ぼくは「いのち」が光っているひとつの<場>であり、きみも「いのち」が光るもうひとつの<場>だと。無数の光がそれぞれの<場>で光っていますが、みんな同じ「いのち」の光です。かけがえのない「いのち」という言い方は、それぞれの<場>で「いのち」が光っていることを言っているのです。
 ぼくという<場>で「いのち」が光っていたのに、明日突然消えてしまうかも知れません。それはもう取り返しのつかないことです。でも「いのち」そのものが消えてしまう訳ではありません。それは依然として無数の<場>で光り続けています。
 いよいよ終わりに近づきました。
 「生きていることに意味が感じられない!」という声にどう答えたらいいのでしょう。もうことばは要らないのではないでしょうか。ただそっと寄り添ってあげる。時には一緒に涙ぐむ。


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