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『末燈鈔』を読む(その4) ブログトップ

最初の手紙 [『末燈鈔』を読む(その4)]

             第1章 臨終まつことなし

(1)最初の手紙

 最初の手紙には「有念無念のこと」という題がつけられています(後でつけられたものです)。この手紙には宛名がありませんが、建長3年(1251年)閏9月20日の日付けがあり、親鸞79歳のときの手紙であることが分かります。
 4段に分けて読んでいきます。まず第1段。

 来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあふて、すゝめらるゝときにいふことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚(しょうじょうじゅ)のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず。

 (現代語訳)「阿弥陀仏のご来迎を待って往生する」という考えの本質は、諸行往生、つまり「さまざまな善き行いにより往生する」ということにあります。それは自力の立場であるがゆえの考えです。また「臨終こそ肝心である」という考えも、この諸行往生の立場の人に当てはまります。いまだ真実の信心を得ていないからです。また『観無量寿経』にありますように、十悪・五逆の罪人が臨終に始めてよき師に出会って、念仏を薦められることに関連して言われることです。真実の信心の人は、阿弥陀仏の光の中におさめとられ、もはや捨てられませんから、すでに正定聚の位にあるのです。ですから、臨終を待つことはありません、来迎をたのむこともありません。信心が定まった時、すでに往生が定まっているのです。来迎の儀式を待つ必要はありません。

 のっけから親鸞浄土教のつぼとも言うべきことが出てきます。信心をえたそのときに往生が定まるのだから、臨終を待つことはない、来迎をたのむことはない、というのです。


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