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『末燈鈔』を読む(その5) ブログトップ

来迎の思想 [『末燈鈔』を読む(その5)]

(2)来迎の思想

 親鸞に寄せられた質問はおそらく「臨終の来迎についてどう考えたらいいのでしょう」といったことではなかったでしょうか。
 伝統的な浄土教では臨終の来迎こそ決定的です。臨終の床で念仏を称える人を、阿弥陀仏が観音・勢至菩薩とともにたなびく雲にのって迎えにきてくださり、極楽浄土へつれていってくださるというイメージが語り継がれ、美しい絵図にあらわされてきました。念仏者たちはそのイメージを胸に温めてきたのです。いまなお日本人にとって仏教の救いと言えば、この来迎図にあらわされたイメージがもっとも親しみ深いものといえるでしょう。 救いは臨終の来迎にあるのです。
 しかし親鸞浄土教の眼目は、救いは臨終にあるのではなく、本願に遇うことができたそのときにあるということです。
 それがどういうことを意味するかは、これからおいおいお話していくことになりますが、ともあれ親鸞は東国で人々にそのように説いていたに違いありません。でも、親鸞が京へ帰ってしまいますと、伝統的な教えがまた人々のこころにしのびよってきて、親鸞の教えとの間で摩擦をおこすことになるでしょう。
 なにしろ『観無量寿経』には臨終の来迎について詳しく説かれているのです。「かの国に生まれるときには、阿弥陀仏は観音・勢至をはじめとして、数限りない化仏たちとともに迎えにおいでになります。観音菩薩は金剛の台(うてな)をささげて勢至菩薩とともにその人の前においでになり、阿弥陀仏は大いなる光を放ってその人を照らし、手をさしのべてお迎えになるのです」といった具合に。これを聞かされた人は、その救いのイメージが脳裏に焼きつき、意識が臨終に向かうのも無理はありません。
 かくして「経に説かれている臨終の来迎についてどう考えたらいいのでしょう」という質問になる。


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