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『末燈鈔』を読む(その6) ブログトップ

そもそも往生とは [『末燈鈔』を読む(その6)]

(3)そもそも往生とは

 浄土の教えは、阿弥陀仏の本願力により、いのち終わったあと、浄土に往生することができるということですから、おのずと「いのち終わるとき」に眼が向くことになりますが、さてしかし、そもそも「浄土に往生する」というのはどういうことか、ここから話をはじめなければなりません。
 親鸞は往生を原則的に涅槃と結びつけます。仏教としてはそれが当然ですが、極楽ということばに引きずられて、ともすると「楽しみの極まる世界に行くこと」というようにイメージされてしまいます。これまた浄土経典の記述にその元があると言わざるをえないのですが、そこでは浄土の麗しさ、妙なる音、芳しい香り、やさしくそよぐ風などなどがこれでもかとばかりに謳いあげられるのです。
 しかし親鸞にとって浄土はあくまで「涅槃の世界」であり、それと対応するのは「煩悩の世界」としての娑婆です。親鸞の書くもののどこにも「楽しみの極まる世界」としての浄土は出てきません。そこは「煩悩が静まった寂静の世界」です。
 往生のイメージの違いは救いのイメージの違いです。ぼくらは救われていないという思いから救いを求めます。あたり前のことで、救われていないという思いのない人に宗教は無縁です。さてしかし、救われていないとはどういうことか。これをひとことで言うのはなかなか難しいのですが、釈迦の言い方では「煩悩に煩い悩むこと」です。
 伝えられるところでは、釈迦は何不自由のない境遇に生まれた人です。ヒマラヤのふもとの小国の王子として生まれ、将来の王となるために必要なものはすべて与えられた。人から羨まれる環境に育ちながら、しかし彼は若い頃から鬱々として人生を楽しめなかったと言います。
 なぜか。


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