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『末燈鈔』を読む(その10) ブログトップ

では臨終をまつのは [『末燈鈔』を読む(その10)]

(7)では臨終をまつのは

 本願に気づくとは、「これから」のことに「いま」気づくということです。そしてそれが救われることに他なりませんから、救いは「いま」です。臨終をまつことはありません。
 では「来迎をたのむ」、「臨終をまつ」とは何か。親鸞はそれは「諸行往生」の立場であり、「自力の行者」だからと言いますが、どういうことでしょう。自分の力でさまざまな行を修めることにより往生しようとする人が「来迎をたのみ」、「臨終をまつ」のはどうしてでしょう。
 自力の行者といえども、往生できるのは弥陀の本願の力であると信じているに違いありません。そうでなければ浄土門ではなく聖道門になってしまう。ただ「弥陀の本願により往生できると信じる」と言うときの「信じる」がどのような「信じる」かが問題です。「信じる」にもいろいろあるのです。
 「与える信」と「与えられる信」。
 ぼくらが普通に「何々を信じる」というときは、ぼくらの方から信を与えています。ぼくらが「信じる」というスタンプをポンと押しているのです。でも、親鸞が「本願を信じる」というときは、ぼくらが本願に信を与えているのではなく、ぼくらは本願に信を与えられているのです。本願がぼくらに「信じる」のスタンプを押しているのです。本願に気づくというのはそういうことです。
 さて与える信は一度与えたからよしというわけにはいきません。「何々を信じる」とは「いま信じる」だけではなく「これからも信じ続ける」という意味です。どこかで信が途絶えたら、そこですべては終わってしまいますから、気を緩めることなく、最後まで信じ続けなければなりません。かくして臨終をまつことになるのです。


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