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他力か自力か [『末燈鈔』を読む(その12)]

(9)他力か自力か

 第1段では「真実信心」のひとと「諸行往生」のひとが対比されていましたが、第2段では、正念に「他力のなかの他力」と「他力のなかの自力」があるとされます。このふたつの対は重なり、「真実信心」のひとが「他力のなかの他力」の正念、「諸行往生」のひとが「他力のなかの自力」の正念となります。
 話が複雑なのは、後者の「他力のなかの自力」の正念がさらに「一には定心の行人の正念、二には散心の行人の正念」に分かれることです。この定心と散心の区別は、善導が『観無量寿経』を注釈するに際して用いたもので、定心といいますのは、禅定のなかで如来とその浄土を観察すること、散心とは、禅定に入れないものが悪をとどめ、諸善を修めることをいいます。
 いずれにしても「定散の善は諸行往生のことばにおさまる」わけで、大事なのは「他力の真実信心」か、それとも「自力の諸行往生」かです。前者では「信心のさだまるとき往生またさだまる」のですが、後者では「臨終をまち」、「来迎をたのむ」ことになります。他力vs.自力という構図です。
 そこから、「そうか、自力ではダメなのだ、他力でなくちゃ」となるところですが、そこに落とし穴が待ち受けています。自力から他力に乗り換えることはできません。乗り換えることも自力だからです。「他力でなくちゃ」とは、これからは弥陀の本願を頼みとしようということですが、本願を頼みとするのも自力です。
 じゃあ、他力って何なの、となりますが、それは本願にふと「気づく」ことです。すでに述べましたように(6)、本願に気づこうとして気づけるものではありません。あるときふと気づくのです。それはこちらから気づいたというより、向こうから気づかされたという感じで、これが他力です。


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