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「これから」と「いま」 [『末燈鈔』を読む(その13)]

(10)「これから」と「いま」

 自力の行人、同じことですが、定心・散心の行者は、臨終をまち、来迎をたのなければならないのに対して、他力の信をえた人、同じことですが、本願にふと気づいた人は、そのとき直ちに往生が定まり(現生正定聚です)、安心をえることができます。前者は「これから」の往生を待ちつづけなければなりませんが、後者は「いま」の安心を喜ぶことができるのです。
 ここに親鸞浄土教の真髄がありますから、くりかえし、まきかえし、ここに立ち返ってこなければなりません。といいますのは、前にも言いましたように(5)、ここには頭をもやもやさせる要素があって、うっかりしますと、また伝統的な浄土教の世界に舞い戻ってしまうからです。
 往生するとは涅槃寂静の世界に入ることですから、それは「これから(いのち終わってのち)」のことであり、したがって安心をえるのも「これから」だと、つい思ってしまう。たしかに往生は「これから」のことですが、でもそれに「気づく」のは「いま」です。そして「いま」安心するのです。
 そもそも安心には「いま」しかありません。
 「ちょっと待って」という声がします、「老後の安心というでしょ。ということは、やはりこれからに安心があるんじゃない?」と。なるほど、ぼくらは老後のことが心配です。認知症にならないだろうか、年金が減額されるんじゃないか、などと不安にかられ、できるだけその備えをしておこうと考えます。
 このように、「これから」のことが不安なのはそのとおりですが、しかし不安を感じるのは「いま」です。同じように「これから」のことの安心を求めますが、安心するのは「いま」しかありません。


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