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第十九の誓願 [『末燈鈔』を読む(その14)]

(11)第十九の誓願 

 救いは「いま」にしかありません。ところが、どうかすると救いは臨終にあると思い、来迎によって救われると思う。これが自力の行人ですが、第十九の誓願はその人たちのためにあると親鸞は言います。第十九願をみておきましょう。
 「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、菩提心(仏になろうとする心)をおこし、もろもろの功徳を修し、心をいたし発願してわがくにに生ぜんとおもはん。寿終(じゅじゅ)のときにのぞんで、たとひ大衆(だいしゅ、観音・勢至をはじめ多くの聖者のこと)と囲繞(いにょう)して、そのひとのまへに現ぜずといはば正覚をとらじ」。
 心から往生したいと願い、そのためにもろもろの善きことを行う人を、その臨終のときに迎えにいって往生させてあげようというのです。
 第十八願と比べてみましょう。
 「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽(しんぎょう)してわが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生まれざれば、正覚を取らじ」。
 明らかに違う点が二つあります。ひとつは「もろもろの功徳を修し(もろもろの善きことを行い)」とある点、もうひとつは「寿終のとき(いのち終わるとき)にのぞんで、…そのひとのまへに現ぜずといはば」とある点です。第十九願を「修諸功徳の願」と呼び、また「臨終現前の願」と呼ぶのはそのためです。
 「もろもろの功徳」と言いますのが定善と散善です。それらを積み上げることによって往生を願う人に、臨終のとき、その枕元に現れ、浄土へ迎えてあげましょうと言うのです。これを親鸞は「諸行往生」と言い、「来迎往生」と呼んで、真実の信心ではないと言ったのでした。
 ここで「うん?」と思います、どうして真実の信心のない自力の行人のための願があるのだろう、と。


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