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真と化 [『末燈鈔』を読む(その15)]

(12)真と化

 これまで「真実信心の人」と「自力の行人」がさまざまに対比されてきました。そこからしますと、「真実信心の人」は往生できるが、「自力の行人」は往生できないという結論になるのだろうと予想したくなります。ところがその当ては外れて、「自力の行人」も往生できるとされるのです。ここが何とも興味深い。
 ふつう真実に対するのは虚偽です。真に対して偽。ところが親鸞は、真に対して化を持ちだすのです。真実信心の人は、真の浄土に往生できるが、自力の行人は、化の浄土に往生すると。化の浄土は、辺地(へんじ)・胎生(たいしょう)・懈慢界(けまんがい)とよばれます。それに対応して、真の願は第十八願ですが、化の願として第十九願(と、ここには出てきませんが、第二十願)があるのです。
 どうして真に対するのが偽ではなく化なのか。それは真実信心とは「気づき」に他ならないからです。前に言いましたように(6)、本願を信じるというのは、本願に気づくことです。そして、気づくことは、気づいてはじめて姿をあらわします。気づかない人には存在しません。いや、存在しないとも言えない。
 ふつうは、あるものは存在するか、さもなければ存在しませんが、それはそのあるものが何であるかみんなに知られているときです。ところが、気づいてはじめて姿をあらわすものは、それに気づいていない人にとって存在するもしないもありません。ただひたすら気づかないだけです。
 「STAP細胞が存在する」は真であるか、さもなければ偽ですが、「本願は存在する」は、本願に気づいていない人には真でもなく、偽でもありません。ですから化と言わざるをえないのです。


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