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『末燈鈔』を読む(その17) ブログトップ

第3段 [『末燈鈔』を読む(その17)]

(14)第3段

 第3段です。

 選択本願は、有念にあらず、無念にあらず。有念は、すなはち色・形をおもふにつきていふことなり。無念といふは、かたちをこゝろにかけず、色をこゝろにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。聖道といふはすでに仏になりたまへるひとの、われらがこゝろをすゝめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな、聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏になりたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまのかたちをあらはしてすゝめたまふがゆへに権といふなり。浄土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善義、無念は定善義なり。浄土の無念は聖道の無念にはにず。またこれ聖道の無念のなかにまた有念あり、よくよくとふべし。

 (現代語訳)阿弥陀如来によって選ばれた本願は、有念でも無念でもありません。有念とは、仏の色や形を思いうかべることです。無念といいますのは、仏の形や色を思いうかべるのではなく、仏を思いうかべることでさえありません。有念や無念というのは、すべて聖道門の教えです。聖道門といいますのは、すでに仏になられた方が、わたしたちを教え導こうとして、仏心宗・真言宗・法華宗(天台宗)・華厳宗・三論宗などの諸宗に分かれ、大乗の至極の教えを説いているのです。仏心宗と言いますのは、いま世に広まっている禅宗のことです。また法相宗・成実宗・倶舎宗などの権教や小乗の教えもそうです。これらはみな聖道門です。権教といいますのは、すでに仏となられた方々が、仮の姿をとって現れ(権化です)、教え導いてくださるので権教と言うのです。浄土の教えの中にもまた有念や無念があります。浄土の有念というのは散善のことで、無念とは定善のことです。浄土門の無念は聖道門の無念とはまた違います。また聖道門の無念の中にも有念があります。この辺のことはよく問いただしてください。

 ここでまた新たな展開があり、有念・無念の違いが出てきます。おそらくそれについての質問があったのでしょう。


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