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「ねばならない」ということ [『末燈鈔』を読む(その18)]

(15)「ねばならない」ということ

 正念に「自力と他力」があるという話につづいて、今度は正念は「有念か無念か」という話題です。念仏思想の歴史において、こんなふうに「AかBか」という形の論争が多くあります。「一念か多念か」が有名でしょう。信心をえたときの一回の念仏が肝心か、それとも日ごろ称えつづける多念が大事かという論争で、隆寛が『一念多念分別事』を著し、親鸞が『一念多念文意』でその書物を解説しています。
 親鸞の答えは、そうした「AかBか」という問い自体に問題があるということです。その問いは「Aでなければならないか、それともBでなければならないか」ということで、どちらにしても「ねばならない」が根底にあります。しかし、そもそも念仏とは「ねばならない」ものか、これが親鸞の問いです。
 「なむあみだぶつ」は称え「ねばならない」ようなものでしょうか。「なむあみだぶつ」を称え「ねばならない」と思った途端、咽喉につっかえないでしょうか。
 「なむあみだぶつ」は向こうから聞こえてくるものです、「浄土へ帰っておいで」と。「なむあみだぶつ」は「招喚の勅命」であるというのが『教行信証』行巻のハイライトでした。くだいて言えば「帰っておいで」という呼びかけ。その呼びかけに気づくことが信心をえることに他なりません。
 「帰っておいで」という呼びかけが聞こえたら、すぐさま「ただいま」と応じるでしょう。それが「なむあみだぶつ」を称えるということです。だからそれは称え「ねばならない」ものではありません。因幡の源左に「源左、たすくる(たすけるぞ)」の声が聞こえたとき、源左はすかさず「ようこそ、ようこそ」と応じましたが、これはやまびこのようなものでしょう。これが源左の念仏です。


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