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東国の念仏者たち(つづき) [『末燈鈔』を読む(その24)]

(3)東国の念仏者たち(つづき)

 とりわけ性信房は親鸞とつながりが深く、すでに京都時代から親鸞の近くにいて越後流罪にも同道したと言われます。彼は常陸の国の鹿島神宮の神職の家に生まれた人で、親鸞が越後から常陸に移ったことの背景になっているとも考えられますが、当然常陸への移動にも随い、親鸞が京都に戻った後は横曽根の地で念仏教化にあたっています。
 親鸞の信頼が深いのも道理で、関東で念仏を巡る訴訟沙汰が起こった時にも鎌倉に出向いてその解決に奔走するなど、中心となって苦労しています。『親鸞聖人血脈文集』に収められている手紙の中で、親鸞は次のようにその苦労をねぎらっています。
 「念仏のあひだのことゆへに、御沙汰どもの様々にきこえさふらふに、こゝろやすくならせたまひてさふらふと、この人々の御ものがたりにさふらへば、ことにめでたふ、うれしうさふらふ。なにごともなにごともまうしつくしがたくさふらふ。いのちさふらはゞ、またまたまうしさふらふべくさふらふ。」(念仏を巡るゴタゴタで訴訟などが起こり苦労されたと思いますが、この人たちの話では、それも収まり一安心されたということで、とりわけめでたく嬉しく思います。何事もことばに尽くせません。いのちがありましたら、また申しましょう。)
 これが出されたのは建長8年の9月で、ようやく混乱が収まった後ですが、建長8年と言いますと、その年の5月に親鸞が善鸞を義絶していたことは先回述べた通りです。その事実から、念仏を巡る混乱と善鸞の義絶とは深く結びついていることが推測できます。つまり善鸞が混乱の背後にいたということです。
 その痕跡はこの第2通の後半にも見られます。「しかれば諸仏の御おしえをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人おも、にくみそしることあるべからず、あわれみをなし、かなしむこゝろをもつべしとこそ、聖人(法然聖人)はおほせごとありしか」の部分です。当時念仏者たちと既存の寺社との対立が激しくなっており、そこに善鸞の影が見え隠れするのです。


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