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『末燈鈔』を読む(その29) ブログトップ

第2段 [『末燈鈔』を読む(その29)]

(8)第2段

 では、第2段に進みます。

 しかれば、わがみのわるければ、いかでか如来むかへたまはむとおもふべからず。凡夫はもとより煩悩具足したるゆへに、わるきものとおもふべし。またわがこゝろのよければ往生すべし、とおもふべからず。自力の御はからいにては真実の報土へむまるべからざるなり。行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ、往生せらるゝことにてあるべきとぞ、うけたまはりたりし。第十八の本願成就のゆへに、阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きわまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらわしたまへり。このゆへに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこゝろをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば恵心院の和尚は『往生要集』に本願の念仏を信楽するありさまをあらわせるには、「行住坐臥をえらばず、時処諸縁をきらわず」とおほせられたり。真実の信心をえたる人は摂取のひかりにおさめとられまいらせたり、とたしかにあらわせり。

 (現代語訳)従って、わが身は悪いから如来は迎えとって下さらないだろうなどと思ってはいけません。凡夫というのは元々煩悩にまみれているのですから、悪いものと思うべきです。また逆に、わが心は善いから往生できると思ってはいけません。自分のはからいで真実の浄土へ往けるものではないのです。それぞれの人の自力の信心では、せいぜい懈慢・辺地や胎生・疑城という仮の浄土へ往けるだけと承っております。第十八願が成就したことにより阿弥陀如来となられて、極まりのない不可思議の利益をお与えくださるその形を、天親菩薩は尽十方無碍光如来と言い表してくださいました。ですから、善人も悪人も関係なく、煩悩が渦巻く心にも関係なく、必ず往生できるのだと知るべきです。こんな訳で、恵心院の和尚・源信は『往生要集』の中で本願の念仏を信心するさまを表して「行住坐臥に関係なく、時ところを選ぶことなく」と言われました。真実の信心を得た人はみな弥陀の摂取の光におさめとられている、と確かに言われているのです。

 「他力は本願を信楽して往生必定なるゆへに、さらに義なしとなり」という第1段最後のことばを受けて、「しかれば」と第2段につづきます。「よきあしき人をきらはず、…往生はかならずするなり」という論点が出てくるのです。


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