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よきあしき人をきらはず [『末燈鈔』を読む(その30)]

(9)よきあしき人をきらはず

 「よし」と「あし」が出てきました。ぼくらが日々生きている中で、「この人はいい人か悪い人か」という判断は非常に大事でしょう。「もしもし、○○ですが」と知らない人から電話がかかってきますと、すぐさま「この人を信用していいかどうか」の判断をしなければなりません。間違うと大変な目にあわされるかもしれません。
 善悪だけではありません。「この人は賢い人か愚かな人か」の判断も大事です。学校でいい点数を取れるかどうかではなく、人間として賢い判断ができる人かどうかです。その意味で愚かな人を政治家に選びますと、これまた大変な目にあわされます。そして、善悪、賢愚ときますと、もうひとつ美醜も欠かせません。ぼくらはつい綺麗な人に目がいってしまう。
 このようにさまざまな尺度で他人を計り、そして自分を値踏みしています。なかでも善悪は生きることの根幹に関わる大事なものさしです。そこから「わがみのわるければ、いかでか如来むかへたまはむ」と思い、「わがこゝろのよければ往生すべし」と思うのは人情として自然でしょう。
 しかし、と一歩退いて考えてみたいのです、「わがこゝろのよければ往生すべし」と思うことはあるでしょうが、「わがみのわるければ、いかでか如来むかへたまはむ」と思うだろうか、と。「わがみのわるければ」とは思います。素晴らしくいい人に出会ったときなど、比べてわがみはと恥ずかしい思いをすることはあります。
 そんなときも、しかし、「もっとひどいヤツはいくらもいるさ」と自分を比較的に上に位置づけていないでしょうか。それは賢愚についても、美醜についても同様で、「ああ、オレは何て愚かだ」と思ったり、「どうしてこうも醜いのか」と嘆いたりはしますが、でも同時に「いやなに、下には下がいるさ」と高をくくっていると思うのです。


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