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ものさしを当てる [『末燈鈔』を読む(その31)]

(10)ものさしを当てる

 これが「ものさしを当てる」ということです。ものさしを当てますと、上には上がいるように、下には下がいますから、もう自分より下はいないということにはなりません。ですから、もし「オレほど悪いヤツはいない」という思いが正真正銘のものでしたら、その人はもう「ものさしを当てる」こと自体から降りていると言わなければなりません。
 そして、ここが肝心なところですが、ぼくらは自分で「ものさしを当てる」ことから降りるわけにはいきません。生きるということは「ものさしを当てる」ことに他ならないからです。ぼくらは善悪の彼岸で生きることはできない。つねに「これは善か、これは悪か」とはからいながら生きていかなければなりません。
 としますと、もし「オレほど悪いヤツはいない」と本気で思うとしますと、これは自分でそう思うというより、どこかから「オマエほど悪いヤツはいない」という声が突きつけられたとしか考えられません。その声にグーの音も出ないとき「ものさしを当てる」ことから降りている自分に気づくことになります。
 そしてそのときこそ、「よきあしき人をきらはず、煩悩のこゝろをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなり」と腹の底から思えるのです。
 善導という唐のお坊さんは多くのことを教えてくれましたが、その中からいちばん大事だと思えることを一つ上げろと言われたら、ぼくは迷うことなく「二種深信」をあげます。彼自身の名文を味わいましょう、「一には決定してふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没しつねに流転して出離の縁あることなし(救われることはありえない)と信ず。二には決定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じてさだめて往生をうと信ず」(『観経疏』)。


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