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『末燈鈔』を読む(その33) ブログトップ

行住坐臥をえらばず [『末燈鈔』を読む(その33)]

(12)行住坐臥をえらばず

 さて親鸞は源信の『往生要集』から「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)をえらばず、時処諸縁(じしょしょえん)をきらわず」ということばを引きます。
 「行住坐臥」ときますと、善導の『観経疏』の一文を思い出します。「一心にもはら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久遠をとはず、念々にすてざるをばこれを正定の業となづく。かの仏の願に順ずるがゆへに」という一節で、法然が経蔵の中でこの文に出会い、専修念仏の教えに目覚めたとされるのは、あまりに有名です。
 源信の「行住坐臥をえらばず、時処諸縁をきらわず」にせよ、善導の「行住坐臥に時節の久遠をとはず、念々にすてざる」にせよ、いつでもどこでも念仏を忘れることなく、という意味にとれます。「いつもこころに太陽を」ではありませんが、「いつもこころに念仏を」と。
 ところが親鸞はこのことばを「尽十方無碍光如来」と関連づけ、「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにおさめとられまいらせたり」という意味にとらえるのです。行住坐臥に念仏を忘れるなかれ、という意味から、行住坐臥をえらばず弥陀の光に包まれている、という意味へととらえ直します。
 「われら」が行住坐臥に念仏するのではなく、「弥陀」が行住坐臥をえらばず摂取してくださる、と。
 「いつもこころに太陽を」ではありません、「いつもこころに太陽が」です。そういえば、和讃「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀仏となづけたてまつる」の「摂取」の左訓(文字の左に小さく注釈したもの)に、「摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」とあります。
 念仏を忘れるなかれ、ではありません、忘れようとしても追っかけてきて忘れられない、というのです。


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