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孫という名の南無阿弥陀仏 [『末燈鈔』を読む(その36)]

(15)孫という名の南無阿弥陀仏

 そのことに気づいたのは、行巻を繰り返し読むなかで、それまで気にも留めていなかった『大阿弥陀経』からの引用にふと目がとまったときです。この経典は『無量寿経』の原型とも言うべき古層の浄土経典で、『無量寿経』では四十八願あるのが、二十四願になっています。そして『無量寿経』の17願と18願が一体となっているのです。
 「それがし作仏せしめんとき(わたしが仏となるとき)、わが名字をして、みな八方上下無央数(無数)の仏国にきこえしめん。みな諸仏をして、おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳国土の善をとかしめん。諸天・人民・蜎飛蠕動(けんぴねんどう、虫けらのことです)の類、わが名字をききて、慈心せざるはなけん(喜ばないものはないだろう)。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願をえて、いまし作仏せん。この願をえずばつゐに作仏せじ」。
 前半が17願にあたり、後半が18願にあたるとは言えますが、もう切り離しがたく一体化しています。向こうからやってきた「なむあみだぶつ」がぼくらのこころを温めてくれ、そしてまた「なむあみだぶつ」とぼくらの口から出ていく。聞名と称名はひとつなのです。
 このように「なむあみだぶつ」は諸仏から聞こえてくるのですが、さてしかし諸仏とはいったい誰か。
 ある方がつくられた歌です。「両手広げ よちよちわれに走り来る 孫という名の 南無阿弥陀仏」。お孫さんが「おじいちゃーん」と言いながら走り寄ってきたのでしょう、それがその方には「なむあみだぶつ」と聞こえた。そして、その声に「よしよし」と応えられたのではないでしょうか。これがその方の「なむあみだぶつ」です。としますと、よちよちと走り寄るお孫さんがその方にとっての仏にちがいありません。
 仏はぼくらのすぐ隣におわすのです。お孫さんの姿をした仏が「かげのかたちにそえるがごとくしてはなれたまはず」おわすのです。


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