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『末燈鈔』を読む(その37) ブログトップ

第4段 [『末燈鈔』を読む(その37)]

(16)第4段

 最後の第4段です。

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば諸仏の御おしえをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人おも、にくみそしることあるべからず、あわれみをなし、かなしむこゝろをもつべしとこそ、聖人はおほせごとありしか。あなかしこあなかしこ。
 仏恩のふかきことは、懈慢(けまん)・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第廿の願の御あわれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきわもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかむこと、仏恩よくよく御安ども候べし。これさらに性信坊・親鸞がはからひ申にはあらず候。ゆめゆめ。

 (現代語訳)この信心を得ることは、釈迦如来や弥陀如来、そして十方世界の諸仏のお力で与えられたものと知るべきです。ですから、諸仏の教えを謗ることはありません、他の修行をしている人を謗ることもありません。念仏をする人を憎み謗る人をも、憎み謗ることがあってはなりません。そのような人をむしろ哀れみ、悲しむ心をもつべきだと法然上人はおっしゃいました。謹言。
 仏恩が深いことは、懈慢・辺地、疑城・胎宮とよばれる仮の浄土に往生することにも現れており、弥陀のお誓いの中に第19願、第20願を設けて下さり、自力の信心の人も思いはかることできない楽しみに会うことができるのです。このように仏恩の深いことは際限もありません。まして、真実の浄土へ往生して無上の悟りを開かせていただくのは、仏恩によることをよくよくお考えください。以上のことは、決して性信坊と親鸞がはからって申しているのではありません。ゆめゆめお疑いのなきよう。


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