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にくみそしることあるべからず [『末燈鈔』を読む(その38)]

(17)にくみそしることあるべからず

 「自力と他力」からはじまり、本願は「よきあしき人をきらはず」ときて、さらに十方諸仏が「かげのかたちにそえるがごとくしてはなれたまはず」と続きましたが、最後の段にきて「しかれば諸仏の御おしえをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし」と締めくくられます。改めて手紙全体を読み返しますと、この「そしることなし」を言うがためにこれまでのことが言われてきたのだと感じます。
 本章の前の方で言いましたように(2,3)、この手紙が書かれた頃の東国では、念仏を巡ってかなりのトラブルがあったようです。言うまでもなく専修念仏の教えは新興宗教です。すでに天台や真言をはじめとする伝統仏教が根を張り、また鹿島をはじめとする神社が信仰されているなかに、新しい専修念仏の教えが持ち込まれたのですから、それに対する反発が起こるのは自然です。
 法然が旗を掲げてこのかた、念仏に対する激しい弾圧が繰り返されてきましたが(法然と親鸞が連座した承元の法難のほかに、親鸞が東国にあったときに起こった嘉禄の法難もまた苛烈を極めたものでした)、それが鎌倉幕府の直轄下にある東国でも起こったわけです。善鸞がその混乱を増幅させたらしいこと、そして性信房が訴訟の中心にあって苦労したことについては前にふれました(3)。
 東国の念仏者たちにとって「念仏する人をにくみそしる人」のことが最大の関心事にならざるをえないでしょう。京にいる親鸞に「どのように対処すべきでしょうか」と問い合わせてくるのは当然のことです。それに対して親鸞はどう答えたか。「諸仏の御おしえをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人おも、にくみそしることあるべからず」と言うのです。さらには「あわれみをなし、かなしむこゝろをもつべし」とまで言います。


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