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たまはりたるとしるべし [『末燈鈔』を読む(その39)]

(18)たまはりたるとしるべし

 「念仏する人をにくみそしる人」がいたら、その人をにくみそしりたくなるのが人情です。かくしてお馴染みの宗教対立が起こります。イラクやシリアでは同じイスラム教を信じる者たちがスンニ派だシーア派だと対立して戦いあっていますが、これほど矛盾したことはありません。人々に救いと喜びを与えるはずの宗教が、憤怒と憎悪を与えて、互いに激しく罵り合わせているのですから。
 『歎異抄』第12章も同じ問題を取り上げています。著者の唯円は「諸門こぞりて、念仏はかひなきひと(甲斐性がない人)のためなり、その宗あさしいやし」と罵ったとしても、その人たちと決して争ってはいけませんと言うのです。そしてこう続けます。
 「われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします…。われもひとも生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくひ気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや」と。
 情を尽くしたことばだと思いますが、しかし言うは易く行うは難しです。どうすればそんなふうに思うことができるでしょうか。
 親鸞はこの手紙で言います、「この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし」と。念仏を謗られて腹が立つのはどうしてかといえば、それを「わが手柄でえたもの」と思うからです、「わがもの」と思うからです。しかし本願念仏は「たまわりたる」ものです。ふと気がつくと、もうわがもとに届いていたのです。
 このように思いますと、念仏は他の人にとっては「いやしくとも、われらがためには最上の法にてまします」から、どうぞ、お構いくださいませんように、と言えるのではないでしょうか。


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