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第3通 [『末燈鈔』を読む(その40)]

          第3章 すでにつねに浄土に居す

(1) 第3通

 第3通は宛先と日付がどちらもはっきりしています。性信房に宛てて、正嘉元年といいますから1257年の10月10日、親鸞85歳の時に書かれたものです。前章で読みました第2通から2年後の手紙です。その間、建長8年(1256年)の5月に善鸞が義絶され、9月には性信房に宛てて鎌倉での訴訟で苦労したことをねぎらう手紙が書かれていますから、それから1年が経ち、東国にも平穏な日々が戻っていたことでしょう。この手紙は純粋に教えの問題に終始しています。その内容からしまして、性信房から「等正覚」ということばについての問い合わせがあったのではないでしょうか。それに対して親鸞が丁寧に答えています。
 2段に分け、まず第1段です。

 信心をえたるひとは、かならず正定聚のくらゐに住するがゆへに等正覚のくらゐとまふすなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益にさだまるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には、等正覚とときたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚はひとつこゝろ、ひとつくらゐなり。等正覚とまふすくらゐは補処の弥勒とおなじくらゐなり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆへに、弥勒とおなじとときたまへり。

 (現代語訳)信心を得た人は、必ず悟りに至ることが約束された正定聚の位につくのですから、それをまた仏の正覚に等しい位である等正覚の位と言うのです。『大無量寿経』では、弥陀に摂取されもはや捨てられないという利益に定まった者を正定聚と名づけ、『無量聚如来会』ではそれを等正覚と言っています。その名前こそ違いますが、正定聚と等正覚とはひとつの意味、ひとつの位です。等正覚という位は、次に仏となられる弥勒と同じ位です。信心を得た人は、弥勒と同じくこのたび無上の悟りに至ると定まったのですから、弥勒と同じと言われるのです。


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